感情

かなり昔から他者の痛みに敏感すぎる気がしている。

いや、実際にその人が感じているかは分からないが自分の立場に置き換えてみたときにこう感じるだろうというのが負の感情だった場合、それがどれだけ軽いものであってもその対象に対してめちゃめちゃ負い目を感じてしまう。

その範囲は人、動物はおろか意志を持たない物体にまで及ぶ。例えば、子供のころによくある、コンクリート造りの建物の隙間のような二度と取れない場所に、些末などこにでも売っているおもちゃを落としてしまったという記憶。このおもちゃは、これから何十年と誰の手にも触れられず、建物が取り壊されるまで永い時を孤独に過ごすのかと考えるとゾッとするような、悲しくなるような気分でモヤモヤとしていた。

また、実体験に照らすと、小学一年生のころ、自分の筆箱から出した鉛筆を兄に目の前でこれ見よがしに折られたことがあり、特にお気に入りの鉛筆であったわけでもないのにわんわん泣いていたことがあった。鉛筆がかわいそうに思ったのだ。この感情は抱く対象が取るに足らないものであればあるほど強くなる。一時期髪の毛を排水溝に流すのが嫌だったことがある。排水溝が詰まるのが嫌とかではなく、自分の身体から発生したもの故か、暗く汚い排水溝の中に送りたくなかったのだ。例が下品になってしまうが、使用済みティッシュでさえ捨てるのがためらわれたほどだ。(精神の終わっていた浪人時代は庭で燃やしていたりした)

こういった感情に意識的になったのはつい最近のことで、去年の春か夏ごろのことだったと思う。「鬱夫の恋」というフリーゲームの動画を偶然再見し、作者について調べていたところ、作者の学生時代の体験がホームページに載せられていたのを発見したのがきっかけだった。作者の学生時代好きだった女の子が、他者の痛みに敏感すぎる人物だったと語られている。ドブ川に流されて見えなくなっていくボールを、先に僕が述べたように、誰にも触れられないままずっと流れていくのが悲しい、という類の発言も、彼女のものとしてあった。自分が清廉な人間だというアピールではないがこういった感情が生活に現れることがままある。思うに自分より弱い対象がひどい目に合うのが嫌なのかもしれない。小学校高学年から中学時代までいじめられっ子だった記憶が弱者に対する憐憫として尾を引いていると思われる。当時の自分と同じような気分になってほしくないのかもしれない。

調べてみたところ「エンパス」という体質だという情報があった。今のところはそういうことにしておいている。不明な感情に名前が付くとホッとする。

 

感情の解像度を上げていきたいという考えもあってこういう頭の整理をしていこうと思っている